2010年4月5日月曜日


参考:君が代 国歌・君が代 国dsgsdfg旗・国歌君がsdf代 国旗・国歌法 君が代
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君が代
「君が代」の楽譜
「君が代」の楽譜(国旗及び国歌に関する法律による)
国歌の対象 日本の旗 日本
作詞 不明(読人しらず)(905年初出)
採用時期 1880年10月26日(非公式)
1888年(対外正式公布)
1999年8 月13日(立法化)
試聴
君が代:楽器による演奏
音声を再生
表・話・編・歴

君が代(きみがよ)は日本の国歌。 明治維新後の1880年に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになった。 1999年に国旗及び国歌に関する法律で国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌。
目次
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* 1 歌詞
* 2 歴史(制定までの経緯)
o 2.1 日本における君が代の認識
o 2.2 和歌としての君が代
+ 2.2.1 テキストと作者
+ 2.2.2 解釈
o 2.3 国歌になるまでの君が代
o 2.4 明治維新から「君が代」制定まで
* 3 国歌としての君が代
o 3.1 第二次世界大戦前
o 3.2 第二次世界大戦後
* 4 君が代をとりまく現状
o 4.1 主な対立する意見
o 4.2 教育現場
o 4.3 国際スポーツ競技
o 4.4 放送局での君が代の演奏
* 5 異説
o 5.1 九州王朝を起源とする説
o 5.2 もとは挽歌であるとする説
* 6 関連する楽曲

国旗及び国歌に関する法律
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この項目は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。
国旗及び国歌に関する法律
日本国政府国章(準)
日本の法令
通称・略称 国旗国歌法、日の丸・君が代法
法令番号 平成11年8月13日法律第127号
効力 現行法
種類 公法
主な内容 国旗・国歌の制定
関連法令 元号法
条文リンク 総務省法令データ提供システム
表・話・編・歴

国旗及び国歌に関する法律(こっきおよびこっかにかんするほうりつ、平成11年8月13日法律第127号)は、日本の国旗・国歌を定める日本の法律。1999年(平成11年)8 月13日に公布・即日施行された。国旗国歌法(こっきこっかほう)と略される。
目次
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* 1 概説
o 1.1 審議経過(1999年)
* 2 法律制定の背景
o 2.1 国旗国歌についての議論
* 3 公立学校と国旗国歌について
o 3.1 職務命令と関連判決
+ 3.1.1 確定判決
+ 3.1.2 係争中
o 3.2 関連事項
o 3.3 著名人などの反応
o 3.4 海外の事例
* 4 脚注
* 5 関連項目
* 6 外部リンク

概説 [編集]

国旗国歌法は本則2条、附則3項、別記2により構成される法律である。

* 第1条 国旗は、日章旗とする。
* 第2条 国歌は、君が代とする。
* 附則 施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
* 別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。

審議経過(1999年) [編集]

* 6月11日 「国旗及び国歌に関する法律案」(所管・総理府本府)が閣議決定され、閣法第115号として衆議院に提出(併せて参議院に予備審査のため送付)される。
* 6月29日 衆議院本会議において内閣官房長官野中広務が趣旨説明。衆議院内閣委員会(委員長・二田孝治)に付託
* 7月1日 衆議院内閣委員会において内閣官房長官野中広務が趣旨説明
* 7月6日 沖縄県那覇市、広島県広島市において地方公聴会開催
* 7月7日 北海道札幌市、石川県金沢市において地方公聴会開催
* 7月8日 衆議院内閣委員会において中央公聴会開催(公述人:慶應義塾大学法学部教授・弁護士・小林節、関西大学文学部講師・上杉聰、エッセイスト・林四郎、日本大学法学部教授・百地章、東京都立大学前総長・名誉教授・山住正己、障害児を普通学校へ全国連絡会世話人・元中学校教師・北村小夜)
* 7月16日 衆議院内閣委員会において参考人意見聴取(参考人:元長野五輪儀典アドバイザー・吹浦忠正、作曲家・中田喜直、國學院大學文学部教授・文学博士・阿部正路、京都産業大学日本文化研究所所長・所功、全日本教職員組合中央執行委員長・山口光昭、東京大学名誉教授・フェリス女学院大学名誉教授・弓削達)
* 7月21日 衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会が開催される。衆議院内閣委員会において河村たかしほか4名から「国旗及び国歌に関する法律案に対する修正案」(題名を国旗法とし国歌に関する条項を削る内容)が提出され、起立少数により否決の後、原案が起立多数により可決。菅直人ほか2名から「国旗及び国歌に関する法律案に対する修正案」が本会議に提出される。
* 7月22日 衆議院本会議で、菅直人ら提出の修正案が起立少数で否決された後、原案を記名投票により採決。投票総数489、賛成 403、反対86で可決。参議院に送付
* 7月28日 参議院本会議において内閣官房長官野中広務が趣旨説明。参議院国旗及び国歌に関する特別委員会(委員長・岩崎純三)に付託
* 7月29日 参議院国旗及び国歌に関する特別委員会において内閣官房長官野中広務が趣旨説明
* 8月3日 参議院国旗及び国歌に関する特別委員会において参考人意見聴取(参考人:東京大学大学院総合文化研究科教授・石田英敬、武蔵野女子大学教授・杉原誠四郎、明星大学人文学部教授・感性教育研究所所長・高橋史朗、中央大学教授・東京大学名誉教授・前日本教育学会会長・堀尾輝久)
* 8月4日 宮城県仙台市、愛知県名古屋市において地方公聴会開催
* 8月6日 参議院国旗及び国歌に関する特別委員長・岩崎純三が委員辞任。後任の委員長に筆頭理事・鴻池祥肇が互選される。
* 8月9日 参議院国旗及び国歌に関する特別委員会において中央公聴会開催(公述人:埼玉大学教養学部教授・長谷川三千子、新潟国際情報大学教授・石川眞澄、財団法人日本オリンピック委員会副会長・上田宗良、日本高等学校教職員組合中央執行委員長・升井勝之)。江田五月から「国旗及び国歌に関する法律案に対する修正案」が同委員会に提出され、挙手少数により否決の後、原案が挙手多数により可決。参議院本会議で、峰崎直樹ほか1名から「国旗及び国歌に関する法律案に対する修正案」が提出され、ボタン式投票により採決。投票総数 239、賛成54、反対185で否決された後、原案をボタン式投票により採決。投票総数237、賛成166、反対71で可決。奏上
* 8月13日 公布、即日施行

原案への賛成は自由民主党、自由党、公明党の与党3党及び民主党の一部による。民主党は原案の採決において党議拘束を外している。
法律制定の背景 [編集]

1996 年頃から、公立学校の教育現場において、当時の文部省の指導で、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に、君が代の斉唱が事実上、義務づけられるようになった。しかし、反対派は日本国憲法の思想・良心の自由に反すると主張して社会問題となった。埼玉県立所沢高等学校では卒業式・入学式での日章旗と君が代の扱いを巡る問題が生じ、1996年より数年にかけて、教育現場及び文部省を取り巻く関係者に議論を呼んだ。また1999年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に、君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する公務員である教職員と文部省の通達との板挟みになっていた校長が自殺。これらを1つのきっかけとして法制化が進み、本法が成立した。

当時首相であった小渕恵三は、1999年6 月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。

「学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。」
「国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。」

当時文部省教育助成局長であった矢野重典は、1999年8 月2日の参議院国旗・国歌特別委員会で、公立学校での日章旗掲揚や君が代斉唱の指導について「教職員が国旗・国歌の指導に矛盾を感じ、思想・良心の自由を理由に指導を拒否することまでは保障されていない。公務員の身分を持つ以上、適切に執行する必要がある」と表明している。

本法律制定後は反対派が劣勢に追い込まれた。しかし、国旗に対する賛成派と反対派の対立は一部ではあるが続いており、報道によって問題となることもあり、その場合は反対派が世論の批判を受け、教育委員会の指導のもと改善がなされている。例えば教育の現場において式典でのこの問題をめぐり教員同士の間で賛否が別れて対立が起こったりするなど混乱は依然として続いている。
国旗国歌についての議論 [編集]

国旗国歌を擁護する意見は、主に保守派から主張されることが多い(国旗国歌擁護の立場がすべて保守派というわけではない)。しかし、論者によってニュアンスの違う意見がいくつかある。例えば、明治以来の伝統を重視しているもので、戦後も広く国民の間に親しまれ定着しているという意見などがある。

サッカーのFIFAワールドカップやオリンピックなど、国際競技大会での『君が代』演奏の機会があるスポーツ分野からは、日本を代表するスポーツ選手と自国への応援として自発的に日章旗(日の丸)が振られ、勝利の感慨の中で『君が代』が歌われる光景は昔と同じである。

一方反対の立場からは、スポーツの応援の場での強制でない自主的な行動は国際的にも評価されるものだが、自国への自負心が他国への優越感―「偏狭なナショナリズム」へと行き過ぎる危険もあり、教育現場での義務化は他国のそれへの尊重につながるわけではなく、逆に自国旗・自国歌、ひいては自民族を誇り自分がその一員である事に拠り所を求める民族主義に発展する危険な傾向であるとする意見が出ている。

第二次世界大戦後、共産主義者らが中心となり『君が代』を否定した(君が代を否定する人全てが共産主義者だと言うわけではない)。日本共産党は現在も、天皇・日の丸・君が代を現に存在する物であるとして認めつつも“いずれ、国民の合意があれば、廃止されるべし”としている。
公立学校と国旗国歌について [編集]
職務命令と関連判決 [編集]
確定判決 [編集]

詳細は「日野「君が代」伴奏拒否訴訟」を参照

東京都日野市の市立小学校の入学式で1999年4月に君が代のピアノ伴奏するようもとめる職務命令を拒否した音楽教師が、それを理由とする戒告処分が違法であり取り消すように東京都教育委員会を訴えた裁判の判決が、2007年2 月27日に最高裁第3小法廷で下された。それによると、「校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に違反しない」、その職務命令は「特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」とされ、教師側の敗訴が確定した[1][2]。
係争中 [編集]
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この節は現在進行中の事象を扱っています。記事の内容は最新の情報を反映していない可能性があります。

東京都教育委員会(都教委)は2003年10月、「卒業式での国旗掲揚及び国歌斉唱に関する職務命令」として、「国旗は壇上向かって左側に掲げる」「式次第に国歌斉唱の題目を入れる」「国歌はピアノ伴奏をし、教職員は起立して国旗に向かって起立し斉唱する」などという項目を作成し、違反した場合は服務上の責任を問われるという、「国旗掲揚・国歌斉唱の義務」を各都立高校に通達した。だが、職務命令に従わない教職員がいたことから、都教委は従わなかった教職員に対し処分を行った。

2006年9月21日東京地方裁判所判決

処分された教職員のうち401人は、「国歌斉唱の起立・強制は、憲法で保障された思想及び良心の自由を犯している」として、都と都教委を相手取り、2004 年1月から順次「強制される必要はないことの確認」と「処分を撤回する」ことを求め東京地方裁判所(東京地裁)に提訴した。

この裁判の判決が2006年9 月21日にあり、東京地裁は

* 国旗及び国歌が軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことは歴史的事実であり、国旗国歌をよしとしない人も多い
* 国旗や国歌に反対することも、思想及び良心の自由の範囲内であり十分尊重されるべきで、国旗への起立やピアノ伴奏を伴った国歌斉唱という都教委の指示に従う義務はない
* 国旗や国歌は強制されるものではなく、国民に自然と定着させるべきもので、それが学習指導要領の理念だ
* 国旗への起立や国歌斉唱強制は「不当な支配」であり違反(教育基本法10条1項)であり、都教委のしたことは思想及び良心の自由を侵害した行き過ぎた処分

として、都と都教委に、国旗国歌の強制による処分の撤回と、原告1人当たり3万円の慰謝料を支払うよう命じる判決を出した。

都教委は2006年9月29日、東京高等裁判所(東京高裁)に控訴した。

2008年12月15日福岡高等裁判所判決

入学式や卒業式での君が代斉唱拒否を理由とする北九州市の処分などは違憲として、教諭らが取り消しなどを求めた訴訟で、福岡高等裁判所は、2008 年12月15日、

* 校長の職務命令は合憲。
* 職務命令が教職員の歴史観や世界観自体を直ちに否定するとは認められず、思想や良心の自由を定めた憲法に反するとはいえない。
* 教諭らの不起立行為は儀式的行事の雰囲気を乱し、保護者らに不安を抱かせ、地方公務員法で禁じられた信用失墜行為にあたる。
* 教諭らは同種の職務命令違反を繰り返しており、裁量権の逸脱とはいえない

として、減給処分4件の処分を取り消した一審・福岡地裁判決の原告勝訴部分を取り消し、処分は適法とするなど、教諭ら原告の請求を全面的に退けた。

2009年10月15日東京高等裁判所判決

卒業式の国歌斉唱時の不起立を理由に再雇用を拒否されたのは違憲・違法だとして、元都立高教諭が都に賠償などを求めた訴訟で、東京高等裁判所は、 2009年10月15日、

* 国歌斉唱時の起立を命じる都の職務命令は合憲。都には広範な裁量権がある。
* 処分歴を理由にした不合格は不当とはいえない。
* 元教諭の行動は、教育を受ける権利に影響を及ぼし、厳粛な卒業式の場では重い違反行為に当たる。

として、約210万円の支払いを都に命じた一審・東京地裁判決を全面的に取り消し、元教諭の訴えを棄却した。

2010年1月28日東京高等裁判所判決

都立高校の元教諭ら13人が、卒業式などで国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に、定年後の再雇用を拒否されたのは不当だとし、都に賠償を求めた訴訟で、東京高等裁判所は、2010年1月28日、

* 起立や国歌斉唱などを指示した都教育長通達や校長の職務命令は、思想・良心の自由を定めた憲法19条には違反しない。
* 再雇用に当たっての裁量権は広く、著しい乱用に当たるとは言えない。
* 原告らは職務命令に違反して戒告処分を受けており、再雇用に際しての低い評価はやむをえない。都教委側に裁量権の逸脱はなかった

として、計2750万円の支払いを都に命じた一審・東京地裁判決を全面的に取り消し、元教諭らの請求を棄却した。

2010年2月23日東京高等裁判所判決

元教諭10人が、通達・職務命令に違反し、卒業式の国歌斉唱で起立しなかったことで、再雇用の合格を取り消したのは違法として、処分の無効確認と損害賠償を求めた訴訟で、東京高等裁判所は、2010年2月23日、

* 職務命令で国歌斉唱や起立を求めるのは特定の思想の強制や禁止に当たらず、思想・良心の自由を定めた憲法に反しない。
* 不起立は職務命令違反や信用失墜行為に当たる。都の判断は不合理とはいえず、裁量権の逸脱はない。
* 起立は社会への所属感を深め教育上の効果も期待できる。

として、元教諭らの請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、元教諭らの控訴を棄却した。
関連事項 [編集]

* 2006年度の卒業式では、中村正彦・都教育長の指導「卒業式の来賓は慎重に検討し、適切に人選せよ」を受けた各校長が、君が代斉唱を拒否した経験のある元職員・担任を式から締め出した。久留米高校では校長が、前校長の出席拒否を教育長答弁に基づくものである旨言明しており、“異論の排除ではないか”との声が出ている[3]。

* 2010 年3月4日、北海道教職員組合日高支部において国旗国歌を入学式や卒業式から排除するため「『日の丸君が代』強制に反対するとりくみについて」という闘争マニュアルを配布していたことが発覚[4]。同問題が国会で取り上げられ川端達夫文部科学大臣は「学習指導要領から国旗国歌を大事にと指導しており、北海道教育委員会と連携して指導する」と述べた[5]。

著名人などの反応 [編集]

東京都教育委員会委員を務める米長邦雄は2004年秋の園遊会に招待された際、今上天皇の前で「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」という発言を行った。これに対し、天皇は「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と返答している。 ただし、翌2005年には、記者会見において「昨年の秋には天皇陛下ご自身が国歌斉唱と国旗掲揚についてご発言を述べられました。学校でこれらのことを強制的にさせることはどうお考えでしょうか」という質問に対し、今上天皇は「世界の国々が国旗,国歌を持っており,国旗,国歌を重んじることを学校で教えることは大切なことだと思います」とご返答されている。

2006 年9月21日の地裁判決について、原告側は「画期的な判決」と評価した。石原慎太郎東京都知事は「この裁判官は教育現場を何にも分かっていない」と批判した。また、土屋敬之・都議会議員(当時民主党)は、10月24日に判決を言い渡した裁判官の罷免を求める集会を主宰した。

2007 年2月20日、日本弁護士連合会は2003年10月の都教委の通達に基づく処分取り消しと、“教職員に一定の思想を強制するもので憲法違反”としてその都教委の通達廃止を求める「警告」を教育委員会に対し行なった[6]。
海外の事例 [編集]

* アメリカ合衆国のアリゾナ州では、州内の全ての学校の教室に国旗を掲げることを義務づけている。また、その国旗はアメリカ製でなければならないと定められている[7]。

脚注 [編集]
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1. ^ 君が代伴奏命令は合憲、教諭の上告棄却…最高裁初判断 読売新聞2007年2月27日付
2. ^ 最高裁第三小法廷 平成16(行ツ)328 戒告処分取消請求事件最高裁ホームページ
3. ^ 卒業式来賓、校長が選別 都立高 恩師も「お断り」アサヒコム 2007年3月10日付け
4. ^ “【北教組問題】日高支部が「国旗国歌排除マニュアル」”. 産経新聞. (2010-03-04). http://sankei.jp.msn.com/life/education/100304/edc1003040014000-n1.htm 2010-03-07 閲覧。
5. ^ “文科相、北教組指導へ 国旗国歌排除マニュアル問題で”. 産経新聞. (2010-03-05). http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100305/plc1003052107031-n1.htm 2010-03-07 閲覧。
6. ^ 「君が代」不起立4教諭処分、日弁連が取り消し求める 読売新聞 2007年2 月21日付[リンク切れ]
7. ^ “<中国製品>排除目指し「国旗法」を審議―米メリーランド州”. レコードチャイナ. (2009-01-26). http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=27955 2009-01-26 閲覧。

関連項目 [編集]

* 日の丸
* 君が代
* 日野「君が代」伴奏拒否訴訟
* 根津公子
* 日本教職員組合

外部リンク [編集]
ウィキソース
ウィキソースに条文の原文があります。

* 国旗及び国歌に関する法律(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)
* 国旗及び国歌に関する関係資料(「文部科学省ホームページ」より)
* 国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号)/網際情報館
* 衆議院本会議での記名投票結果
* 参議院本会議でのボタン式投票結果
* 大日本帝国国旗法案

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%97%97%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%9B%BD%E6%AD%8C%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B」より作成
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君が代(きみがよ)は日本の国歌。 明治維新後の1880年に曲がつけられ、以後は国歌として扱われるようになった。 1999年に国旗及び国歌に関する法律で国歌に制定された。元は平安時代に詠まれた和歌。
目次
[非表示]

* 1 歌詞
* 2 歴史(制定までの経緯)
o 2.1 日本における君が代の認識
o 2.2 和歌としての君が代
+ 2.2.1 テキストと作者
+ 2.2.2 解釈
o 2.3 国歌になるまでの君が代
o 2.4 明治維新から「君が代」制定まで
* 3 国歌としての君が代
o 3.1 第二次世界大戦前
o 3.2 第二次世界大戦後
* 4 君が代をとりまく現状
o 4.1 主な対立する意見
o 4.2 教育現場
o 4.3 国際スポーツ競技
o 4.4 放送局での君が代の演奏
* 5 異説
o 5.1 九州王朝を起源とする説
o 5.2 もとは挽歌であるとする説
* 6 関連する楽曲
* 7 参考音源
* 8 脚注
* 9 注釈
* 10 参考文献
* 11 外部リンク

歌詞 [編集]

1880 年(明治13年)、法律では定められなかったが、日本の国歌として「君が代」が採用された。この国歌のテーマは皇統の永続性であり、歌詞は10 世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである[1]。

日本の国歌の歌詞を以下に引用する[2][注 1]。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

– 君が代, 日本の国歌

チェンバレン

バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。チェンバレンの訳を以下に引用する[3]。

A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.

汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
歴史(制定までの経緯) [編集]
日本における君が代の認識 [編集]

国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ幕末、日本が開国した時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長・中村裕庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[4]

つまり国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味でつかわれていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[4]。

こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。
和歌としての君が代 [編集]
テキストと作者 [編集]

作者は未詳。

歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[5][6]。

『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[7]。

なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[7]。
解釈 [編集]

万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」が天皇なのは相手なのか、はたまた別の王朝(徳川家など)なのかであるのかどうかということがしばしば問題にされる。

『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[8]。

『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[9]。

これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。

ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17 世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[4]。

『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[9]。
国歌になるまでの君が代 [編集]

元々は年賀の為であったこの歌は、鎌倉期・室町期に入るとお目出度い歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。江戸時代には隆達節の巻頭に載り、おめでたい歌として小唄、長唄、浄瑠璃、仮名草子、浮世草子、読本、祭礼歌、盆踊り、舟歌、薩摩琵琶、門付等にあるときはそのままの形で、あるときは変形されて使われた[10]。
明治維新から「君が代」制定まで [編集]
薩摩バンドが寄宿していた横浜妙香寺境内に建つ
横浜妙香寺境内 薩摩バンドの碑
ウィキソース
ウィキソースに歌詞の原文があります。

1869 年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を当時薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[5][11]。国歌の概念が無かった日本人に対してフェントンがどのような説明を行ったかは定かではないが、国王を言祝ぐ英国国歌"God Save the King"が手本にされたのであろうと言われている[要出典]。

ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが海軍内で異論があり海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただしこの説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている[要出典]。

当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終え帰国。その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[5][6][11]。

同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施工され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[6][11]。

その後の1893年(明治26年)8 月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[6][12]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[12]。また1914 年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[6]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。

1903 年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[13]。
国歌としての君が代 [編集]
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第二次世界大戦前 [編集]

大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。
第二次世界大戦後 [編集]

第二次世界大戦後には、「国民主権」を定めた日本国憲法が制定された。「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから(例えばベン・アミー・シロニーは「君が代」皇統の永続性〈万世一系〉がテーマであり[14]、世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えることになった[15]と解釈している)、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。一方、1974年(昭和49年)に内閣府政府広報室がおこなった世論調査では、回答者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」としていた[16]。

現在の日本国政府の公式見解は国家国旗法案が提出された際の1999年6 月11日の段階では「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6 月29日に「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』『『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる』(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[17]。
君が代をとりまく現状 [編集]
主な対立する意見 [編集]
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「君が代」の歌詞への反対意見や教育現場での「君が代伴奏」「君が代斉唱」反対運動(主に日本教職員組合やその傘下の教職員労働組合)は現在でも続き、賛否が対立している。

肯定的意見には以下のようなものがある。

* 事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視すべき
* 政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしい
* 国民は愛国心を持つべきであるから「君が代」を歌うことでその意識を高めなければならない
* 君が代によって天皇への忠誠心を涵養する

否定的意見には以下のようなものがある。

* 帝国時代の国歌であり、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強い(「君」は天皇であるという解釈)

これへの反論には以下のようなものがある。

* 立憲君主制の国歌(たとえばイギリスの「女王陛下万歳」など[18])と比較しても極端な天皇賛美の意味はなく、天皇象徴制の国歌ではごく普通の国歌である。

* 軍国主義を象徴している

これへの反論には以下のようなものがある。

* 古い軍歌である「ラ・マルセイエーズ」を国歌としているフランスを始めとして、「外国から来た敵を殲滅せよ」と唱えるような過激な軍歌調の愛国歌あるいは軍歌そのものの国歌を持っている国は多く[19]、「君が代」が軍国主義を象徴するものではない。

「小さな石が大きな岩になる」という内容が非科学的であるとの批判がある。これに対して、以下のような反論がある。

* これは地質学的に一般的な現象である。小さな砂粒が大きな石になる例には細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。これらは必ずしも近代的な知識ではなく、少なくとも部分的には古くから知られていたことが「さざれ石」の名からわかる。非科学的という誤解は歌詞の正確な理解を欠くことによる。
* これはそもそも文学表現である。「起こらないことが起こるまで」とは「永遠に」を意味するありふれた修辞である。

他の反対意見には「メロディが歌いづらい」「歌詞が陰鬱だ」などといった意見がある。ただ、この曲調は、雅楽の中でも大陸文化がもたらされる以前の形式である神楽歌が基調とされていることに起因する。

尚、石原慎太郎は「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか」と答えている[20]。

反対派ではないが永六輔は「大勢で歌うと揃わない歌」だとして、特に「さざれ石」の一息が続かずに「さざれ」で息継ぎをして後が微妙に遅れる者が出やすいと述べた [21]。ちなみに朝鮮半島のパンソリふうに歌うとピタリとはまるとも述べた。母音で伸ばすのはパンソリの歌い方だという永の意見に対しては、パンソリでなくとも母音で伸ばす歌唱法はあると内藤孝敏が指摘している[22]。


教育現場 [編集]

「君が代」の教育現場での扱いについては議論になることが多いテーマである。

1998 年頃から教育現場において、文部省の指導で日章旗(日の丸)の掲揚と同時に「君が代」の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。1999年には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「君が代」斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する日教組教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして「国旗及び国歌に関する法律」が成立、政府は国旗国歌の強制にはならないとしたが日教組側は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する教育行政並びにこれを支持する保守派との対立は続いてきた。しかし近年、国民の大多数に受け入れられている現実から日教組の姿勢も軟化し入学式や卒業式での国旗掲揚国歌斉唱の実施率は上昇している(君が代に対する意見の対立については、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
国際スポーツ競技 [編集]

国際競技大会やオリンピック・FIFAワールドカップでの試合前の君が代斉唱、日本のスポーツ選手の応援として自発的に「君が代」が斉唱される光景は、誰も強制していない。

また各国の国旗掲揚・国歌斉唱が起立・脱帽の上、厳粛に行われている。しかし、日教組は、「日の丸・君が代」を拒否しているが、「君が代」に代わる新しい国歌の制定を主張していない。もし、日本国外で各国の国旗掲揚・国歌斉唱が起立・脱帽の上、厳粛に行われている行為を全否定すれば、とても国際社会では通用しない理論・行動である[23]。(例えば保守系漫画家小林よしのりは作中においてそのような批判をしている[24])
放送局での君が代の演奏 [編集]

1951 年9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し正式に日本が独立国に復帰して以降、NHKのラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる「君が代」の演奏が始まった。テレビではNHKが開局した1953年(昭和28年)2月の時点ではなかったが、同年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。

しかし近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日演奏しているのはラジオ第2放送と教育テレビのそれぞれの終了時のみである。但し教育テレビは24時間放送を行っていた2000年から 2006年4月までは放送休止を行う時(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)に流れていた。あとは総合テレビの減力放送・拠点局の放送休止明け(主として月曜早朝。歌詞についてはテロップ表示される局とされない局がある)に流れる。

また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の午前5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日午前0時のニュース明けに演奏されていた。

アール・エフ・ラジオ日本で放送されているミッキー安川がパーソナリティーを務める一連の番組、「ミッキー安川の「勝負」シリーズ」のうち「ミッキー安川のスーパーフライデー」と「ミッキー安川の雑オロジー」において午前零時前後に君が代の合唱を流す。 かつては「ミッキー安川のずばり勝負」と「ミッキー安川の朝まで勝負」においてアシスタント・ゲスト出演者を含めて番組冒頭に生斉唱していたが、最近は以前「朝まで勝負」で斉唱された録音を流す。当初は正調演奏だったが、歌い出しが揃わない事が多く、歌いやすい様に最初の一小節をリフレインした編曲で演奏されている。


異説 [編集]
九州王朝を起源とする説 [編集]

九州王朝説を唱えた古田武彦は『魏志倭人伝』において、倭国内の国の一つ・伊都国があったと推定される糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような事実を発見している[25][26]。

* 「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が見つかった福岡県・志賀島の志賀海神社の4月と11月の祭礼(山誉め祭[27])において以下のような神楽歌として古くから伝わっている。

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

– 山誉め祭, 神楽歌

* 糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、細石神社の「さざれいし」、細石神社の南側には「井原遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と君が代の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。
* 細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫(コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。

上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは天皇家ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。

* 『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集が醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり天皇家から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため後に有名な『平家物語』(巻七、“忠度都落ち”)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。
* 糸島・博多湾一帯[28]は参考資料[29]」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。

もとは挽歌であるとする説 [編集]

藤田友治を中心として唱えられている、およそ以下のような説[30]。

* 国歌の元歌とされる古今集の賀歌は『万葉集』の挽歌を本歌にしたものであり、もともとは挽歌である。
* 本来挽歌であったものを賀歌にしたのは、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の個人的創作活動である。
* したがって国歌になった「君が代」も挽歌なのだと認識すべきである。

関連する楽曲 [編集]

* 君が代行進曲
* 唱歌版君が代
* 筝曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
* 信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
* 皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
* 君が代(忌野清志郎)

参考音源 [編集]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズには、君が代に関連するマルチメディアがあります。

* 君が代:演奏(前半)と歌唱(後半)。
音声を再生
「君が代」(キングレコード、K1-A。1930 年)
* 君が代:演奏のみ。
音声を再生
アメリカ海軍軍楽隊による。
* うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。

Kimigayo70.mid Media:Kimigayo70.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符70個毎分。初めてテンポの正式記録が記された「大日本禮式」でのテンポによる。
Kimigayo60.mid Media:Kimigayo60.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符60個毎分(終り部分リタルダンド)。旧日本海軍軍楽隊が演奏していたテンポによる。
Kimigayo50.mid Media:Kimigayo50.mid (ヘルプ・ファイル)
君が代:演奏のみ。テンポ4分音符50個毎分。NHKのテレビ・ラジオ放送終了時に演奏されるテンポによる。

脚注 [編集]

1. ^ 歴史的仮名遣いでは、「巌」の仮名書きは「いはほ」である。
2. ^ 海軍省所蔵の1880年(明治13年)の原譜に「国歌君が代云々」とあることから、エッケルト編曲の現行「君が代」成立時には「国歌」という訳語ができていたことがわかる(『君が代と萬歳』参照)。
3. ^ 松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々である(東京大学国語国文学会 『国語と国文学 昭和四九年六月号』 至文堂、日本、1974年。収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』参照)。
4. ^ 1658 年(万治元年)に第一巻が発行されている(全国大学国語国文学会 『国語国文学研究史大成7 古今集 新古今集』 三省堂、日本、1960年。参照)。

注釈 [編集]

1. ^ ベン=アミー・シロニー 「第8章1『日本王朝の太古的古さ』」『母なる天皇:女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、日本、2003年1月、30頁(日本語)。ISBN 4062116758。
2. ^ 歌詞と読みは国旗国歌法の表記による。
3. ^ チェンバレンの英訳は、『国歌君が代の研究』より引用。この英訳を和訳した歌詞は、シロニー(2003)、30頁より引用。
4. ^ a b c 小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、日本、1941年。urn:nbn:jp-46036320。
5. ^ a b c 暉俊康隆 『日の丸・君が代の成り立ち』 岩波書店〈岩波ブックレット〉、日本、1991年。ISBN 9784000031271。
6. ^ a b c d e 陸上自衛隊中央音楽隊、他(演奏). (2000). 君が代のすべて(KICG 3074). 日本: キングレコード. http://amazon.jp/dp/B00005HM29.
7. ^ a b 和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、日本、1998年。ISBN 4944113277。
8. ^ 佐伯梅友註 『日本古典文学大系8 古今和歌集』 岩波書店、日本、1974年。
9. ^ a b 東京大学国語国文学会 『国語と国文学 昭和四九年六月号』 至文堂、日本、1974年。収録の後藤重郎著『定家八代抄賀歌に関する一考察』
10. ^ 山田孝雄『君が代の歴史』宝文館出版、昭和31年、9章「この歌は古来如何に取り扱われたか」、10章「江戸時代に於ける「君が代」の歌」
11. ^ a b c 内藤孝敏 『三つの君が代 - 日本人の音と心の深層』 中央公論社、日本、1997年。ISBN 9784120026546。
12. ^ a b 弓狩匡純 『国のうた』 文藝春秋、日本、2004年。ISBN 9784163659909。
13. ^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』 講談社文庫。
14. ^ シロニー(2003)、29頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)
15. ^ シロニー(2003)、30頁(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)
16. ^ 内閣府政府広報室. "「年号制度・国旗・国歌に関する世論調査」" (日本語). 2008-12-26 閲覧。
17. ^ 「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈
18. ^ 君が代と異なり、「女王陛下万歳」の歌詞中には「神よ女王(国王)を守りたまへ」と直接的な王室賛美がある。
19. ^ その他の具体例には以下のようなものがある。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」(「市民らよ 武器を取れ/軍隊を 組織せよ」)、タイ王国の国歌「タイ国歌」(「戦争となっても恐れはしない/(戦時にはタイ人が)一滴の血をも残さず捧げるであろう」)、ベトナムの国歌「進軍歌」(「ベトナム軍よ進め/我らが父祖の地を守らんとする無二の信念のもと」)、中華人民共和国の国歌「義勇軍進行曲」(「我らの血肉を以って新たな長城を築こう/敵の砲火をついて進め」)、アメリカ合衆国の国歌「星条旗」(「狼煙の赤き炎立ち 砲音宙に轟く中/耐え抜き 旗は猶其処に在り」)
20. ^ 毎日新聞(1999年3 月13日付)のインタビュー)
21. ^ 永六輔 『芸人』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年10月20日、133-136頁。
22. ^ 内藤孝敏 "「国歌」となった「君が代」" 2009年(平成21年)9月8日 閲覧(内藤孝敏「「歌唱(ウタ)」を忘れた「君が代」論争」『諸君!』 文藝春秋社、1999年10月号 所収)。
23. ^ タイ王国では不敬罪が存在し、国歌が演奏されている際に起立・脱帽しないと、警官は何時でも逮捕することが出来る。
24. ^ 小林よしのり 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小学館、日本、2009年。 ISBN 9784093897150
25. ^ 古田武彦 『「君が代は九州王朝の讃歌」』 新泉社、日本、1990年。ISBN 4787790129。
26. ^ 参考:独創古代|君が代の源流
27. ^ 参考:志賀海神|社山誉祭
28. ^ l 参考:我が君地図|糸島・博多湾岸
29. ^ 参考資料:福岡|歴史的視点から見た干潟環境の変化と 人との係わりに関する研究 ―福岡・今津干潟を例にー
30. ^ 藤田友治 『君が代の起源』 明石書店、日本、2005年。ISBN 4750320374。

参考文献 [編集]

* 小山作之助 『国歌君が代の由来』 小山真津、日本、1941年。urn:nbn:jp-46036320。(非売品)
* 和田真二郎 『君が代と萬歳』 ミュージアム図書、日本、1998年。ISBN 4944113277。
* 小田切信夫 『国歌君が代の研究』 平凡社、日本、1965年。

外部リンク [編集]

* 君が代寺・日本吹奏楽発祥の地 本牧山 妙香寺
* *.rmの音楽ファイル(音楽のみ)
* もうひとつ(二つ)の君が代
* 君が代の源流
* 志賀海神社の神事で唱えられてきた君が代

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日本の国旗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(日の丸 から転送)
移動: ナビゲーション, 検索
曖昧さ回避 日の丸は、この項目へ転送されています。1958年から1963年に集英社が発行した漫画雑誌については「日の丸 (漫画雑誌)」をご覧ください。
問題提起
このページのノートに、このページに関する問題提起があります。
問題提起の要約:出典の記載と信頼性について

日本の旗
用途及び属性 市民陸上、政府陸上、市民海上、政府海上?
縦横比 2:3
制定日 1999年8 月13日[1]

使用色:

* 白、紅

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。

国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2 の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色は地は白色、日章は紅色とされている。
目次
[非表示]

* 1 国旗として扱われる以前の歴史
o 1.1 古代から中世
o 1.2 近世から近代
* 2 国旗としての歴史
o 2.1 慶長遣欧使節の旗
o 2.2 国旗制定
o 2.3 占領下における日章旗の掲揚禁止
o 2.4 国旗国歌法以前の法令による扱い
o 2.5 国旗国歌法の成立
o 2.6 教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事
* 3 日章旗のデザイン
o 3.1 正式規格
o 3.2 特例の日章旗
o 3.3 日章旗と軍用の旗
o 3.4 税関旗
o 3.5 日章旗のデザインに関する逸話
o 3.6 日章旗とデザインが似ている旗
* 4 国民感情
o 4.1 積極的な掲揚
o 4.2 反対意見
* 5 外国に存在する国章損壊罪についての議論
* 6 諸外国
* 7 その他
* 8 参考文献
* 9 脚注
* 10 関連項目
* 11 外部リンク

国旗として扱われる以前の歴史 [編集]
古代から中世 [編集]

日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子…」で始まる手紙を送っている。また国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を大切にしていたことが窺えよう。神社の拝殿は基本的に太陽を拝める方角を向いており背を向けることは珍しく、そのことからも太陽への信仰は窺える。

太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献としては、797年(延暦16 年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている[2]。

世界的・歴史的に太陽が赤で描かれることは珍しく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的である[3]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。また文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代においても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたらされた慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれたと考えるのが妥当であろう。なお日本では紅白がめでたい色とされており、日章旗が定着していった事実は日本人の色彩文化を知る上で興味深い。ちなみに「あか(赤)」の語源は「あかし(明し)(あかるい)」と同源であるという[4]。

現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市(旧塩山市)の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られている[5]。これは後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、「御旗」(みはた)と呼ばれて義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家の甲斐武田家に家宝として伝来した。伝世品のため真偽のほどは不明だが、中世前半に遡る遺例として貴重である。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[6]。

室町時代の勘合貿易、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635 年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられた。また、戦国時代には伊達氏が軍旗・日之丸大龍を用いていた。
近世から近代 [編集]
19世紀初頭の琉球王国の船旗と薩摩藩の船旗(『琉球貿易図屏風』より)。日章旗は琉球王国の船旗の一つ。当時の薩摩藩の船旗は島津家家紋の「丸に十の字」である。
19世紀初頭の爬竜船。

近世には簡易な装飾として普及していた。江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い旭日の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。

一方、船印としては、薩摩藩に服属していた琉球王国が中国への進貢船に日章旗を用いており、これは当時の絵図からも確認することができる[7]。進貢船の派遣自体は14世紀まで遡るが、日の丸を掲げるようになったのがいつからかは定かではない。しかし19 世紀初頭の屏風絵[7]にははっきりと描かれている。他にもハーリーで用いられる爬竜船の船尾部にも日の丸の幟が掲げられていた[7]。

ちなみに日の丸(日輪)は、琉球でも太陽神(テダガミ)の象徴として、船印だけでなく首里王府が建てる石碑(玉陵の碑文など)にも刻まれていた。琉球では、古くから太陽神が信仰されており、進貢船の日の丸も航海の無事を太陽神に祈る意味で使用されたものである[8]。

近世における船旗関連の資料としては、1635年(寛永12 年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[9]。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。
『御船図』安宅丸。19世紀に描かれた想像図には、船尾部に複数の日の丸が見える。

また、1673 年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布し、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。

1854 年(嘉永7年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日、老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、俗に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。翌1855年(安政2 年)、島津斉彬は洋式軍艦「昇平丸」[10]を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である[11]。

1859 年(安政6年)、幕府は幟から旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上国旗の地位を確立したのはこれが最初である。

1860 年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。使節団はサンフランシスコに到着後、更に陸路・海路を経由してワシントンD.C.に到着し、アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンに謁見して批准書の交換を終えた。その後、使節団一行はニューヨークを訪問するが、日章旗と星条旗が掲げられたブロードウェイをパレードする模様が伝えられている[12]。これが日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。
国旗としての歴史 [編集]
慶長遣欧使節の旗 [編集]

仙台藩の伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節は、1615年1 月30日(慶長20年1月2日)にエスパーニャ国王フェリペ3世、同11月3日(元和元年9月12日)にローマ教皇パウルス5世に謁見した際、伊達氏の軍旗である日之丸大龍を掲げていた。

1858年(安政5年)、幕府目付岩瀬忠震と下田奉行井上清直は、和船に岩瀬忠震の先祖・伊達氏の旗であり、慶長遣欧使節が携えた日章旗を掲げて、神奈川沖に停泊中のポーハタン号に渡り、孝明天皇の勅許が無いまま、日米修好通商条約に調印・署名した。
国旗制定 [編集]

1870 年2月27日(明治3 年1月27日)制定の商船規則(明治3年太政官布告第57号)に「御國旗」として規定され、日本船の目印として採用された。規格は現行とは若干異なり、縦横比は7対10、日章は旗の中心から旗竿側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていた。この日を記念して国旗協会は国旗制定記念日を制定し、国旗掲揚の日としている。

以後、日章旗は国旗として扱われるようになったが、「国旗」としての法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在しなかった。1931年(昭和6 年)2月、第59回帝国議会において全11条及び附則からなる「大日本帝国国旗法案」が衆議院議員石原善三郎により提案され、同年3月26日衆議院本会議において可決された。しかしながら貴族院送付後の3月28日、会期終了に伴う帝国議会閉会により審議未了廃案となり、続く第60回帝国議会に再提出されたものの衆議院解散により再度廃案となり、結局成立しなかった。
占領下における日章旗の掲揚禁止 [編集]

1945 年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。この間、商船旗としては国際信号旗のE旗に基づいた旗が代用された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年より日章旗の自由掲揚が認められる。
国旗国歌法以前の法令による扱い [編集]

第二次世界大戦後から国旗国歌法制定までの間、反・日の丸を主張する勢力(日本教職員組合、日本共産党、朝日新聞が代表的な勢力)は日章旗の国旗としての法的正当性に疑義を唱えることがあった。これに対し日章旗を国旗と認める勢力(自民党など保守派)は日章旗が日本国旗であることは一種の慣習法と考えられることなどを主張、その根拠として前出の商船規則、大喪中ノ国旗掲揚方のほかにも複数の法令の条文中に「国旗」の文字が使用され「日本国旗が存在することが当然の前提とされている」ことを挙げていた。国旗国歌法制定前の法律で日本国旗を意味する「国旗」の文字を含んでいた事例は次のとおり(当該条文は後に部分的に文言が改正されたものもあるがここでは初制定時のものを掲載。国会の審議を経ない命令(政令以下)での使用例は省略。旧字体新字置換)。

* 船舶法(明治32年法律第46号)第2条「日本船舶ニ非サレハ日本ノ国旗ヲ掲クルコトヲ得ス」ほか複数条項に登場
* 海上保安庁法(昭和23年法律第28号)第4条第3項「海上保安庁の船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を附し、国旗及び海上保安庁の旗を掲げなければならない。」
* 保安庁法(昭和27年法律第265号)第83条第1項「保安庁の使用する船舶は、番号及び他の船舶と明らかに識別し得るような標識を付し、国旗及び長官の定める旗を掲げなければならない。」
* 自衛隊法(昭和29年法律第165号)第102条第1項「自衛艦その他の自衛隊の使用する船舶は、長官の定めるところにより、国旗及び第四条第一項の規定により交付された自衛艦旗その他の旗を掲げなければならない。」
* 商標法(昭和34年法律第127号)第4条第1項第1号「国旗、菊花紋章、勲章、褒章又は外国の国旗と同一又は類似の商標」

国旗国歌法の成立 [編集]

1990年代末から学校の式典等における日章旗掲揚に係わる問題が頻発、掲揚に反発する教職員(日本教職員組合)とのトラブルから高校校長に自殺者が出るに至った。背景には教育現場における日の丸掲揚と君が代斉唱に対する反対運動があった[13]。このことに対処するため、1999年(平成11 年)には国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)が公布され、正式に国旗として定められた。

詳細は「国旗及び国歌に関する法律」を参照

なお、大喪時の掲揚方法は、大喪中ノ国旗掲揚方(大正元年閣令第1号)に定められている。
教育現場の日章旗掲揚をめぐる国会議事 [編集]

国旗国歌法成立後も一部の教育現場において国旗掲揚に対する賛成派と反対派の対立が続いた。このため、2006年10 月31日には衆議院の教育基本法に関する特別委員会において自民党の稲田朋美議員から学習指導要領の国旗・国歌条項にのっとって教職員には入学式、卒業式において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する職務上の義務があるかどうかとの質問が出された。この質問に対して伊吹文明文科大臣と民主党の藤村修議員の両名とも教職員にはその義務があると答えている。
日章旗のデザイン [編集]
日章旗の制式
附則の認める日章旗
正式規格 [編集]

国旗国歌法の本則における日章旗の制式は、縦横比を2対3、旗の中心(対角線の交点)を中心とし、縦の長さの5分の3を直径(縦を2とした場合r=0.6)とした円(日章、日輪)を描くのが正式である。なお、日章の赤は法律では「紅色」となっており、JIS慣用色名ではマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、実際には金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも多い。
特例の日章旗 [編集]

長らく慣行(商船規則で定められた制式)として、縦横比を7対10とし、日章を旗の中心より旗竿側に100分の1近づけた点を中心として描くものが使用されてきたため、国旗国歌法の附則第3項で当分の間この制式も用いることができる旨の特例が定められている。両者の縦横比を最小公倍数に換算すると、本則:14対21、特例:14対20となり、本則の方がやや横長(あるいは特例の方が縦長)となるが、日章と白地のバランスとしては特例の方が安定している、風にはためく時の見栄えは日章が旗竿に寄っている方が美しい、とする意見もある。
日章旗と軍用の旗 [編集]

日本軍の軍旗として、帝国陸軍では日章旗とは別に「陸軍御国旗」(後に「軍旗」)として十六条旭日旗(日章が旗の中心)が規定された。また、帝国海軍では軍艦旗として陸軍とは意匠が異なる十六条旭日旗(日章が旗の左辺寄り)が規定されると共に、艦首旗として日章旗が使用された。

ポツダム宣言受諾による帝国陸軍及び帝国海軍の解体により軍旗及び軍艦旗は廃止されたが、自衛隊の設立に伴い海上自衛隊は帝国海軍と同一意匠の「自衛艦旗」を採用した。また、陸上自衛隊は帝国陸軍の軍旗とは意匠を変更した「自衛隊旗」(八条旭日旗)を採用した。なお、自衛隊旗及び自衛艦旗は自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)の別表第一[14]で規定されている。

自衛隊旗の生地はあやにしき(綾錦)織で、地の彩色は白色、日章及び光線の彩色は紅、縁の彩色は金色、寸法は横は108.9cm、日章は直径41.5cmと規定されている。自衛艦旗の生地は麻又はナイロンで、地の彩色は白色、日章及び光線の彩色は紅、寸法は横は縦の一倍半、日章の直径は縦の二分の一で、日章の中心は旗の中心から左辺に縦の六分の一偏することとされているが、大きさの規定はされていない。この他に光線の間隔や幅、角度も規定されている。

なお自衛隊の航空機等に記されている国籍マークは、旧日本軍時代と同様の白の縁取りが施された日の丸が使用されている。

旧海軍軍艦旗・自衛艦旗


旧陸軍軍旗


自衛隊旗


国籍マーク
税関旗 [編集]

青は海・空、白は陸で、接点に税関があることを表している。1892年(明治25年)に制定。

税関旗
日章旗のデザインに関する逸話 [編集]

安津素彦の著作『国旗の歴史』に、明治時代にイギリスまたはフランス、オランダが日の丸の意匠を買い取ろうとしたという記述がある。また、この日の丸買収の話は、伊本俊二の著作『国旗 日の丸』では、「1874年(明治7年)の春頃にイギリスが買収(当時の500万円)を申し出て、寺島宗則外務卿を相手に交渉した」としている[15]。ただしこの説は吹浦忠正が著書『「日の丸」を科学する』の中で「真偽は不明とはいえ、私は単なるジョークないし外交辞令上のものではなかったのではないかとほとんど無視することにしている」[16]と結論づけている。
日章旗とデザインが似ている旗 [編集]

フィールドが無地であり、無地の円のみがチャージされた長方形の旗を掲載。

パラオの国旗


バングラデシュの国旗


国際信号旗 I (India)


オレンジボールフラッグ
ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、太陽が描かれた旗に関連するカテゴリがあります。
ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、円が描かれた旗に関連するカテゴリがあります。
ウィキメディア・コモンズ ウィキメディア・コモンズには、無地の旗に関連するマルチメディアがあります。


国民感情 [編集]
フェイスペインティング(2006年FIFAワールドカップ)

各種世論調査によれば、大多数の日本国民は国旗国歌法の制定前から日章旗を国旗として受け入れている。一例として、テレビ朝日が1999年7月に行った世論調査では、日章旗を日本の国旗とすることに反対する国民は8%のみであった[17]。サッカーやバレーボールの国際試合において日章旗をモチーフとしたフェイスペインティングも2002年のFIFAワールドカップ頃を境に一般化している。

沖縄における感情の変遷は独特である。日章旗は、1945年から1972年までのアメリカ軍統治時代には多くの住民の間で本土復帰を求める象徴で[18]、各家では日の丸を大切に所持していたが、本土復帰後には望んでいた昭和天皇の訪沖が叶わなかったことや日本政府の対米政策(米軍基地問題など)を巡る不満から、一転して日本政府への抗議の象徴として使用される傾向がある[要出典]。
積極的な掲揚 [編集]
国旗を掲揚しているJR九州有田駅
国旗が運転台真上(前から見て左上)に掲げられている東急バス

第二次世界大戦後、国旗・日章旗の掲揚が公共機関等に限られ、各家庭や個人での掲揚が稀となった。そこで、祝日等における積極的な掲揚を勧める者もいる。

以下、例を挙げる。

* 産経新聞:祝日には、朝刊一面の日付右に、国旗と祝日名を表示(国旗の表示は祝日のみであり、振替休日・国民の休日には、国旗の表示はない)。
* 九州旅客鉄道(JR九州):2002年12月23日の天皇誕生日以降、すべての有人駅で祝日に国旗掲揚を実施。
* 大丸松坂屋百貨店:大丸神戸店等で、祝日の際に社旗に代わって掲揚。
* 大阪市営地下鉄・阪神電気鉄道:営業中の全種別全列車の、車内妻面(貫通扉上)に小旗の日章旗を2本交差する形で、1両の客室内に計4本取り付けられている。
* 日本国内の多くのバス運営社局:祝日に路線バスの車体に国旗を掲揚して運行している。振替休日・国民の休日には国旗の掲揚はしない。このことからも、国旗掲揚の意味は、単なる休日ダイヤであることの告知ではなく、祝日を祝う意味であることが分かる(ただし、神奈川中央交通など、国民の休日や振替休日・年末年始などに、休日ダイヤや臨時ダイヤで運行していることを告知するために使用される場合もある)。また、バスの日に掲載される場合もある。

このように、国旗掲揚は祝日に限っており、振替休日・国民の休日には掲揚(又は表記)しないことが多い。振替休日・国民の休日は祝日とは異なり、暦上の日取り以外に休日の「祝う意味合い」がないためだと思われる。
反対意見 [編集]

上記のように国旗としての日章旗はほとんどの日本国民に受容されている。ただし、主に教育界で国旗掲揚が強制されているとする認識により(国旗及び国歌に関する法律#公立学校と国旗国歌について参照)日章旗に対する議論や批判はみられる。いわゆる左翼勢力である日本社会党・日本共産党・新社会党・日本教職員組合・全日本教職員組合、朝日新聞を中心に毎日新聞・中日新聞・東京新聞・琉球新報等でも国歌(君が代)とともに国旗である日章旗掲揚に対して稀に批判的な記事が掲載された。ただし、これらの媒体においても、日章旗を国旗とすること自体への否定論は現在ではほとんど見ることはなくなった。

なお、かつては創価学会・公明党等が日章旗への批判を行うなど、日章旗への反発は比較的広く存在していた[19]。同じ敗戦国であるドイツが戦後国旗を変えていることと比較して、戦争責任論について語られることもあった。ただし、現在のドイツ国旗は戦前のヴァイマル共和政時代の国旗を採用したものであり、戦前の国旗が復活した形になる(なお、現在のドイツ連邦共和国は戦前のドイツ国とは国家体制上連続しておらず、1935年にドイツ国(ナチス・ドイツ)国旗として制定されたハーケンクロイツ旗の掲揚は禁止されている)。日章旗そのものへの反対意見は今ではほとんどなくなっているが、強制とみなす立場から学校での日章旗への掲揚に反対する意見[20]は現在でも後を絶たない。
外国に存在する国章損壊罪についての議論 [編集]

アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ロシア、中華人民共和国、大韓民国と世界の国々は国旗の裁断や焼却などの国旗・国章を冒涜する行為には刑罰を規定している。日本では外国の国旗・国章に関しては外国国章損壊罪で規定しているが、自国の国旗・国章を損壊することを処罰する法律は無い[21]。

第45回衆議院議員総選挙における、2009年8 月8日に鹿児島県霧島市で行われた民主党皆吉稲生候補の集会[22]で、国旗2枚を裁断して支持者が作成したとされる“党旗”を壇上に掲揚した[21]。8 月18日、皆吉は、衆議院議員総選挙出陣式で「国旗の使用方法としては不適切で深くおわびする」と謝罪した。同日、民主党幹事長(当時)・岡田克也が皆吉を口頭注意した。皆吉の後援会は、党本部や県連および支援団体に「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなく、主催者の不手際が原因」と謝罪する文書を送付した[23](詳しくは民主党 (日本 1998-)#国旗切り張り問題を参照)。この問題を受けて、百地章日本大学教授は、民主党の行為を批判しつつ「国旗への侮辱行為に刑事罰が科されない日本が世界的に異常」とし、国旗に対する敬意は教育で教えることが最も良いが、日本の国旗に反対する日教組が力を持つ教育界ではそれも難しく、法で定める必要もあるのではないかと指摘した。一方、北野弘久日本大学名誉教授は、国旗国歌に敬意を払うのは当然とした上で、法で規定している欧米諸国と日本では歴史的にも国旗国歌へのコンセンサスが大きく異なり、日章旗には侵略戦争というイメージにも繋がるため、尊重義務を規定することには反対であると主張している[21]。
諸外国 [編集]
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この節の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。必要な議論をノートで行ってください。
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この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2008年12月に貼り付けられました。

太平洋戦争での日本の軍事行動や占領で日章旗が伴ったことから、当時、日本軍に盛んに抵抗した東南アジア在住の華僑(商人・植民地での労働者として東南アジアに移住した中国人達)や当時戦場となった中国大陸に居住していた民衆が多く属している中華人民共和国では日章旗に対し嫌悪感を示す者が多い。特に共産党政権維持と中国の国益のため反日教育が政策として取り入れられる中華人民共和国では日章旗を大日本帝国の犯罪行為を示す道具として盛んに用いる。また李氏朝鮮時代の朱子学政策による固定思想化と終戦時に発生した朝鮮半島の南北分裂による動乱(朝鮮戦争)から国家の求心力・政権力を高めるため韓国・北朝鮮双方では日本による朝鮮統治を政策に利用し反日教育が行われているため、日本に嫌悪感を抱く者がいる。このような背景から韓国人の中にも感情的に日章旗を燃やされたり、踏みつけるなど抗議をする場面はよく見られる。近年ではアメリカに住む中国・韓国系アメリカ人も同様の行動を取り、現代においては過大に被害が加算され、被害者数や住民の計画虐殺など一部が明確に捏造されていることが明らかとなっている、いわゆる「南京大虐殺」などを題材とした反日映画を北米で盛んに作製し全米をはじめ世界(特に中国がODA支援を行っているアフリカや中近東地域)に向けて発信している。映画作品の多くは「ザ・レイプ・オブ・南京」などの反日思想の作品を参考にしていることから日本帝国主義の象徴とし日章旗が盛んに描写されている。

なお前者の韓国・北朝鮮とは異なり、台湾では戦後に勃発した国共内戦に破れて台湾に来た中国国民党軍の統治があまりにも酷かった(当時「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」とまで言われた)ことや最近の日本文化の影響も加わり、日本・日章旗を好意的に見る傾向が強い。また台湾の国家整備の中で前日本統治時代に後藤新平などの日本人が残した遺産やノウハウがその後の国家形成に役立ったことも評価される要因の一つとなっている。

また当時、インド・東南アジア・東アジアに植民地・利権を持っていたアメリカ・イギリス・オランダ・フランスなどの国では、南方資源帯の確保と援蒋ルートの遮断及び大東亜共栄圏の建設を目指した日本軍と敵対し、戦火を交えたことから、一部の人々から嫌悪感を示されることがある。代表例として、1971年に昭和天皇がイギリス、オランダを訪問した際には激しい抗議集会が起こり、日章旗が焼かれた。特にオランダは第二次世界大戦ではオランダ本国がドイツに侵略され戦場となったことから、戦後社会が疲弊した。そんな中で最大の植民地(オランダの国家予算収入の3分1を占める地域)だった東インドをインドネシア独立戦争で失い、経済に大打撃を受けると共にその植民地維持のための強行姿勢が国際社会から非難を浴びたことから、独立戦争の要因を作った日本と独立戦争の指導にあたった日本兵の行動に対する評価も加わり、反日感情が長らく残った。今日においても1991年に来日した際、オランダ女王は1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書にて賠償問題が法的には国家間で解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会で「日本のオランダ人捕虜問題は、お国ではあまり知られていない歴史の一章です」と述べ賠償を要求している。 その一方で約300年以上もの間、欧米諸国に植民地支配され自信を失っていたフィリピン、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ミャンマー、インドなどの国々やアジア解放のために協力したタイ王国では日本を主にアジア独立の見地から評価し、欧米と対等に戦い、真珠湾攻撃・マレー作戦・蘭印作戦などを通じて東洋人・有色人種でも白人に勝てるという自信と勇気を与えたこと、目的を成し遂げるためには大変な努力が必要であることを身をもって教えてくれたこと、そして大和魂(民族の誇りや愛国心など)を教えてくれたこと、植民地政策を行った国家の中で唯一、被害国側に謝罪をしてくれたことなどから日章旗・旭日旗に敬意を示す地域(東南アジア、オセアニア地域、インド、中東、アフリカなど)も多い。

パラオの国旗[24]には「日章旗の影響が見られる」との主張がある。パラオの国旗#起源に関する諸説も参照[25]。
その他 [編集]

* 国際信号旗においては、日の丸が数字の「1」として採用されている。
* 白米の真ん中に梅干しを1個乗せた弁当を「日の丸弁当」と呼ぶ。
* 国家公務員や三公社五現業のように、国家や公社が行う事業とそこで働く人間の態度を、危機意識が欠けているなどの批判的な意味で、「親方日の丸」、「親方日の丸株式会社」と呼ぶ事がある(親方はこの場合雇用者という意味)。
* 天皇誕生日などの一般参賀での国旗は皇居外苑あたりで配られており、これは、社団法人国旗協会の皇居参賀協力委員会で提供しており、宮内庁ではない。ちなみに委員会の構成員は神社本庁や、仏所護念会教団等である。
* 学習指導要領においては「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と記されており、『学習指導要領解説』(文部科学省著作物)には、「国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童(生徒)が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。(後略)」[26][27]と記されている。
* 国旗に文字等を書く(寄せ書き)際、日の丸の部分には何も書いてはいけないという慣例がある。これは、日の丸の部分が神聖とされていたからだが、現在においてはあまり意識されていない。
* 1936 年のベルリンオリンピックにおいて、朝鮮出身の孫基禎は日本代表として男子マラソンに出場し優勝した。日本統治下の京城(現在のソウル)で創刊された東亜日報は日章旗を黒く塗り潰した写真を掲載してそれを報じ、11ヶ月の停刊処分を受けた。
* 源平合戦のおり平氏は赤地に白、源氏は白地に赤の旗を使った。戦国大名の織田信長や武田信玄、徳川家康など(長篠の決戦などに)日の丸の旗を用いていた。
* 秋田県の一部地域ではウサギ肉のことを「日の丸肉」と呼ぶ。
* 『チャンプロード』を始めとするヤンキー雑誌の通販広告では、業界用語として別の旗である旭日旗(旧軍艦旗、現自衛艦旗)を「日章旗」と呼ぶ例が多い。

参考文献 [編集]

* 暉俊康隆『日の丸・君が代の成り立ち』(1991年、岩波ブックレット)ISBN 4000031279
* 高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』河出書房新社 1993年 ISBN 4309724825
* 与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』新星出版 2006年 ISBN 4902193485

脚注 [編集]
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1. ^ 1870 年(明治3年)の商船規則(明治3年太政官布告第57号)で御國旗として規定。
2. ^ 日本で太陽を旗に用いたのは大化元年(645年)の大化の改新以後、天皇制が確立された頃からである。『日本なんでもはじめ』泉欣七郎、千田健共編、ナンバーワン、 1985年、149頁 ISBN 4931016065
3. ^ 強い傾向ではなく、バングラデシュの国旗では太陽を赤で示し、パラオの国旗では月を黄色で示している(# 日章旗とデザインが似ている旗参照)。
4. ^ 岩波書店『広辞苑』第5版
5. ^ 日の丸の御旗/富士の国やまなし観光ネット
6. ^ 日の丸御旗(堀家所蔵)
7. ^ a b c 『琉球貿易図屏風』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)参照。高良倉吉・田名真之編『図説琉球王国』81-82頁。なお『琉球貿易図屏風』は、1999年の修復時に1830年代以降、薩摩藩の関与で制作されたことが判明している。
8. ^ 与並岳生『新琉球王統史20 尚泰王/琉球処分 下』46頁参照。
9. ^ 貴重資料「御船印並諸国御船印之図」、水野家文書、首都大学東京所蔵
10. ^ 大砲を積んだ琉球船(琉球大砲船)の名目で建造願いが出されたが、実際は洋式軍艦として建造されている。
11. ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照
12. ^ 遣米使節団のブロードウェー・パレード、在ニューヨーク日本国総領事館
13. ^ 国旗及び国歌に関する法律#法律制定の背景
14. ^ 自衛隊法施行令(昭和29年政令第179号)、総務省法令データ提供システム
15. ^ 伊本俊二『国旗 日の丸』中央公論新社、1999年、176-177頁、ISBN 4122034639
16. ^ 吹浦忠正『「日の丸」を科学する』自由国民社、1995年、ISBN 4426745004
17. ^ ニュースステーション電話世論調査、1999年7月、テレビ朝日(インターネット・アーカイブ参照)
18. ^ オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ―1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって、沖縄県公文書館
19. ^ 国旗及び国歌に関する法律#国旗国歌についての議論
20. ^ 国旗及び国歌に関する法律#職務命令と関連判決
21. ^ a b c 【日本の議論】日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か、産経新聞、2009年8月30日
22. ^ 【09衆院選】日の丸裂いて「党旗」に陳謝 鹿児島の民主候補陣営、産経新聞、2009年8月18日
23. ^ 国旗で民主マーク、鹿児島の候補者 出陣式でおわび、読売新聞、2009年8月18日
24. ^ The Palau National Flag was the winning entrant by Mr. Blau Skebong in the 1979 ROP Flag Contest and was adopted by the Olbiil Era Kelulau through Public Law No. 7-6-2 on September 1980.(要旨:パラオ国旗のデザインは1979年に行われたコンテストによる)Flags of The World
25. ^ 辻原康夫『図説国旗の世界史』河出書房新社、2003年、73,89頁
26. ^ 小学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省
27. ^ 中学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省

関連項目 [編集]
ウィキソース
ウィキソースに郵船商船規則(商船規則)の原文があります。
ウィキソース
ウィキソースに唱歌「日の丸の旗」の原文があります。
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズには、太陽が描かれた旗に関連するマルチメディアがあります。

* 国旗
* 国旗の一覧
* 日本の旗一覧
* 国旗及び国歌に関する法律
* 旭日旗
* 大喪中ノ国旗掲揚方

外部リンク [編集]

* 石井研堂『明治事物起原』(国会図書館・近代デジタルライブラリー)
* 太政官布告(日本法令索引〔明治前期編〕)
o 明治3年太政官布告第57号(祝日可用分大旗之圖)

[隠す]
表・話・編・歴
アジアの国旗
東アジア
大韓民国 | 中華人民共和国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 日本 | モンゴル国
東南アジア
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その他
アブハジア¹ | 北キプロス | 中華民国 | ナゴルノ・カラバフ¹ | パレスチナ | 南オセチア¹
「その他」は国家の承認を得る国が少ない、または無い国であり、国際連合非加盟。事実上独立した地域一覧も参照。

* ¹ ヨーロッパにも分類され得る。
* ² 一部はアフリカに含まれる。

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国旗及び国歌に関する法律
(平成十一年八月十三日法律第百二十七号)

(国旗)
第一条  国旗は、日章旗とする。
2  日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。

(国歌)
第二条  国歌は、君が代とする。
2  君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

   附 則

(施行期日)
1  この法律は、公布の日から施行する。
(商船規則の廃止)
2  商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。
(日章旗の制式の特例)
3  日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。


別記第一
 (第一条関係)
  日章旗の制式


   一 寸法の割合及び日章の位置
    縦 横の三分の二
日章
     直径 縦の五分の三
中心 旗の中心
   二 彩色
    地 白色
日章 紅色
別記第二
 (第二条関係)
  君が代の歌詞及び楽曲
一 歌詞
    君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて こけのむすまで
二 楽曲 



  国歌「君が代」について

1、「君が代」の成り立ち

 今から千数十年ほど前、延喜五年に出た歌集「古今和歌集」の巻7、賀歌の初めに「題
しらず」「読み人知らず」として載っているのが初めです。その後、新撰和歌集にも、和漢
朗詠集にも、その他数々の歌集にも載せられました。
 また、神様のお祭りにも、仏様の供養にも、酒宴の席でも、そして、盲目の乙女の物乞
いにも歌われました。
 これに曲がつけられたのは、明治2年10月ごろ、当時横浜の英国公使館を護衛するた
めに、日本に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽長、ジョン・ウィリアム・フェントンが言い出し
たからということです。彼は、
「儀礼音楽が必要だから、何かふさわしい曲を選んだらどうでしょうか。」
と、当時薩摩藩の大山巌に進言し、それに基づいて、大山が数人と相談して、平素自分
が、愛唱している琵琶歌の「蓬莱山」に引用されている「君が代」を選び、その作曲をフェ
ントンに頼んだということとなっています。
 しかし、その曲は、日本人の音感にふさわしくないということになりました。1880年(明治
13年)、宮内省雅樂課に委嘱し、課員数名の中から奥好義の作品が選ばれ、一等伶人
(雅楽を奏する人)の林広守が補作して、発表されたのがこの曲です。これに洋楽の和
声をつけたのは、当時教師として日本に滞在していたドイツ人の音楽家フランツ・エッケ
ルトです。
 この曲については、次のようなエピソードがあります。日本の代表的作曲家山田耕作氏
は、若い頃ドイツに留学していました。その頃、ドイツの大学の音楽教授たちが、世界の
主な国歌について品定めをしました。その結果第一位に選ばれたのが日本の「君が代」
でした。
2、歌詞について
(1)「さざれ石の巌となりて」について

 「さざれ石というのは、細かい石のことです。さざれ石が固結した岩石を礫(れき)岩とい
います。つまり、さざれ石は巌になるのです。その順序はこうです。
 日本列島やアルプスやヒマラヤ山脈などのできかたをみると、大陸の周辺に地向斜と
いう細長い海ができる。そこに大陸から運ばれてきた小さな石(さざれ石)が堆積を続け
何千万年という長い間に、圧力で固結して岩石となる。そこが、やがて地殻変動で、隆起
して山脈となる。・・・という一連の現象が、地質学の造山論の骨子であります。地質学発
達以前にできた「君が代」が科学的にみて、現代の地質学の理論にピタリと合っているの
は不思議なくらいで、歌詞には非科学的なところは少しもないというのが地質学者の見解
です。
(2)「君が代は、千代に八千代に」について

 これは、「天皇の御代がいついつまでも」と言うような意味です。現代は、民主主義の
時代であるのに、天皇を讃える歌を歌うのは矛盾しているという考えもありますが、それ
は、表面的な解釈と申せましょう。
 現憲法の第一条には、
「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」
とあります。象徴という言葉を考えてみましょう。「鳩は、平和の象徴である。」というように
象徴とは、目に見えないもの表現しにくいものを、目に見えるような形に表したものです。
 天皇は、日本国民が一つに統合されるシンボルということになっています。したがって、
「君が代は、千代に八千代に・・・」の意味は、現憲法に照らしてみても、
「日本及び日本国民が、いついつまでも平和で栄えますように」
という意味になります。ですから、民主主義とは、少しも矛盾しないことになります。
 イギリスの国歌は、世界で最も古く有名なものですが、労働党内閣ができても、「神よ、
守れ、女王を」と歌っています。それで、民主主義と少しも矛盾しないことを、イギリス人
は知っているのです。
(3)「歌詞が小さい子供にはわからない」ということについて

 小学校の校歌でも、一年生や二年生にも全部意味が分かって歌えるような歌でなけれ
ばならないということになると、ある意味では、非常に幼稚な歌にならざるを得ません。だ
から、必ずしも歌というものは、全員が意味を完全に理解してから歌わなくてはならない
というものではなく、歌っていくうちに、だんだんその意味が分かってくるというものでよい
のでありましょう。国歌は童謡ではないのですから、ただ分かりやすい歌詞というだけで
は充分ではありません。
 日本を代表する歌の歌詞として、日本文化の中から生まれたもの、古くから人々に親し
まれ、しかも、格調の高いものであることが望ましいのでしょう。その意味でも、この歌は、
ふさわしいと言えるでしょう。
3,「君が代」と戦争について

 どこの国でも、戦争のときは国歌を歌い、その軍隊は、国旗を掲げて戦争をします。で
すから、どこの国の国歌も国旗も、みな戦争につながることになり、特に日本の国だけ戦
争の時、国歌を歌ったというわけではありません。戦争というものは、国の総力を尽くして
するものですから、どこの国でも国民の力を結集するために国歌を歌います。
 また、当然のことですが、「君が代」を歌えば、日本が再び軍国主義化するとか、戦争
につながるという議論は成り立ちません。 
 日本以外の国でも戦争をしています。それどころか、日本は世界の中でも戦争の少な
い国なのです。
 竹山道雄氏の「剣と十字架」によれば、1480年(文明12年-室町時代)から、1941年
の(昭16年)までの戦争の回数は、次のようになっています。
  イギリス 78回、 フランス 71回、  ドイツ 23回、  日本 9回 
 これによっても、日本は平和の続いた国だということが分かると思います。
 戦前、日本が軍国主義になり戦争になった原因は、平和を祈っておられる天皇陛下
の御心を思うことのできない一部の政治家や軍人、また、自分の利益のみを求める国
民の一部に原因があったといえるでしょう。
 天皇陛下が、平和を願っておられたことは、陛下の御製を詠むとよく分かります。アメ
リカとの開戦前、陛下のお気持ち尋ねられた時、日露戦争前に明治天皇が詠まれた御
製を繰り返し詠まれました。その御製とは、次のような和歌です。
 
 四方の海、みなはらから(同胞)と思う世に、など波風の立ちさわぐらむ

(海をへだてた我が国のまわりの国々は、皆兄弟だと思っているののに、どうして、互いに
敵として,憎み合い、戦争をしょうとさわぐのだろうか。)

4,国歌としての「君が代」について

 フランスの国歌は、初めから国歌として作られたものでも、定められたものでもないので
す。だんだん多くの人に用いられていくうちに定まったものです。
 これは、一例にすぎませんが、我が国の「君が代」の場合は、一つの法令が発せられ
ているから国歌であるとか、その法令が見当たらないから国歌でないなどと議論してこと
を決すべき性質のものではないでしょう。
 幾百年にわたって、広い地域で多くの先人に歌い継がれてきた「君が代」の和歌が、
興るべき時に際会して、稀世のメロディを得、世界に認められる儀礼曲となったもので
す。一千年を越す歴史の所産なのです。洋楽となってからも90年用いられて、今日に
至ったのです。
5,日本の国歌「君が代」と外国の国歌

 外国の国歌と比べてみましょう。外国の国歌は、戦争や血や敵などという戦闘的なイ
メージが多いのです。それに比べて、日本の国歌は、なんと平和な歌でしょう。
 初代の天皇陛下より、代々の天皇陛下は、日本国民を愛し、その幸せと日本国の発
展とを祈って来られました。それに対し、国民は、天皇様を尊敬し、お慕い申し上げて
きました。だからこそ、2千年以上もの間、この関係は続いてきたのです。

       日本国歌                                 

君が代は、千代に八千代に

さざれ石の巌となりて

    こけのむすまで         

参考資料

中国国歌                   アメリカ国歌
                     

立て、奴隷となるな            見よや 朝の薄明かりに
血と肉もて築かむ             たそがれゆく 美空に浮かぶ
よき国 われらが危機せまりぬ      われらが旗 星条旗を

今こそ 戦うときは来ぬ           弾丸降る 戦いの庭に
立て立て 心合わせ敵にあたらん    頭上を高く ひるがえる
進め進め 進めよや            堂々たる星条旗よ
                       
                        おお われらが旗のあるところ
                        自由と勇気共にあり    
  

                    

             「神の子の教育(下)」(日本教文社より)


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日本国国歌。<国旗国歌法>

1999 年8月13日より施行された「国旗及び国歌に関する法律」によって法的に国歌と認められる。

天皇をたたえる歌として入学式、卒業式など歌うことを拒む人もいる。

醍醐天皇の命令により紀貫之らが編集した古今和歌集の巻七、賀歌(がのうた)*1にある読人知らずの歌。この歌での「君」の使われ方は「あなた」という意味。

そのメロディーは1880年(明治13), 一等伶人(楽人)林廣守の撰によって伶人奥好義が作った.そしてさらにそれを海軍軍楽教師フランツ・エッケルト(ドイツ)が吹奏楽に編曲し、現在の「君が代」となる.この年の11月、明治天皇の誕生日(天長節)を祝って宮中において初めて演奏された。

教科書に掲載されるのは 1881年(明治14)文部省音楽取調掛発行のわが国初の音楽教科書「小學唱歌集初編」(大日本図書株式会社刊) で歌詞は1,2番であった。
歌詞

1番
君が代は ちよにやちよに さざれいしの 巌となりて こけのむすまで うごきなく ときは かきはに かぎりもあらじ

2番
君が代は ちひろ の底の さざれいしの 鵜のゐる磯と あらはるゝまで かぎりなき みよの栄を ほぎたてまつる

現在、公式に演奏されている管弦楽版の「君が代」は、近衛秀麿編曲版。

*1:祝いの歌

* : D

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さ 孫基禎, 新生佛教教団
た 高橋源一郎, 都民のハートに火をつける会, 地方教育行政の組織及び運営に関する法律
な 日本国歌
は ヘタレ保守
ま 丸谷才一

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1.
日本国国歌「君が代(Kimigayo)」+α
3分34秒 - 2007年9月22日
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君が代(KIMIGAYO) 雅楽
1分18秒 - 2009年6月18日
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Gackt - Kimigayo ・ ガクト - 君が代
1分33秒 - 2006年8月28日
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新君が代(2008~)
1分44秒 - 2008年10月30日
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本田美奈子 「The Star-Spangled Banner」「君が代」独唱
3分36 秒 - 2008年4月19日
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君が代
2010年1月5日
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君が代 ROCK 忌野清志郎
3分7秒 - 2008年12月1日
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Kiyoshiro Imawano - Kimigayo ~ 忌野清志郎 - 君が代
3分6秒 - 2006年9月3日
youtube.com

初音ミク 君が代独唱
57秒 - 2007年12月22日
zoome.jp
君が代 2
23秒 - 2010年4月17日
ameba.jp

布施明 - 君が代 ~ Akira Fuse - Kimigayo
1分6秒 - 2006年9月3日
youtube.com

「新・君が代」2008年版
1分43秒 - 2007年5月24日
dailymotion.com

君が代に関連する検索キーワード忌野清志郎 君が代 君が代 独唱 君が代 行進曲 君が代 ロック 清志郎 君が代
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ノーモア「君が代強制」のホームページ




今後、一層の政治問題化が予想される東京、靖国神社



沖縄と「君が代」、①君が代の歴史、②君が代の歌詞、最新更新日10.4.1
 美しい海をもつ沖縄。その一方では「オキナワのなかに基地があるのではない。基地の中にオキナワがあるのだ。」と言われるオキナワ。また大江は著書「オキナワノート」のなかで、「日本にオキナワがあるのではない。オキナワに日本があるのだ」と述べています。つまり大江は、現在の日本の眞の姿が、オキナワに象徴的に表れていると言っているのです。
 先のアジア・太平洋戦争では唯一の地上戦がオキナワであり、多くの犠牲者がでました。そのなかでも、ウチナンチューは、ヤマトンチューよりも勇敢に闘ったといわれます。理由は、皇民化教育にありました。この皇民化教育のなかで中核的な役割を果たしたのが「君が代」なのです。
オキナワは常に日本の捨て石とされてきました。「天皇(ヒロヒト)メッセージ」では、今後数十年にわたってオキナワの「施政権」をアメリカに譲るとされ、戦後日本は、軍事面のことはオキナワに押しつけ、経済の復興を果たしてきたといっても過言ではないでしょう。
このような背景から、戦後オキナワでは、独立論なども論議され、1981年には「琉球共和国憲法」の二つの試案と「沖縄特別県制」構想も提起されてきました。このホームページでは、ウタについての様々な意見・報告などを集約し、ウタを通して現代日本を考えていこうというものです。なお念のために書いておきますが、私がここで一番問題にしているのは、「君が代」にかかわる「思想・良心の自由」の点です(もちろん、君が代そのものにもなんらかの問題があると考えていますが)。ここでお話したいのは1943年の戦時中に出たアメリカのバーネット判決(ウエストバージニア州教委が、公立学校生徒に国旗敬礼行事への参加を義務づけ。これに対し、バーネット家は宗教上の理由から、これを拒否。罰を受けたので、これは良心の自由を侵すものとして提訴。アメリカ連邦最高裁は「国旗敬礼の強要は、信教・言論の自由を保障した憲法に違反すると判決)です。残念ながら日本の最高裁(最近は特に私にいわせれば最低裁)ではありませんが。将来アメリカの世界戦略の片棒をかついで、日本の国軍として、海外派兵するのは私たち大人ではありません。それはいまの若い世代であり、いま私たちの目の前にいる子どもたちなのです。



私がペン・ネーム「ホープ」です。このホームページは私がつくりました。このホームページのセールスポイントは、下の項目のなかの「卒業式の主人公」の前半のなか(白い部分)で述べられている君が代の強制がこどもの「思想・良心の自由」を侵すものであるという点です。このことを私なりに法律的な観点から展開しているつもりです。一応日本は「法恥国家」「法置国家」ですから。よろしかったら、ご一読を。


 最近まで沖縄文学のサークル「ヤポネシア」 (ヤポネシアとは、作家島尾敏雄の造語で、日本列島から九州以南、台湾あたりまでの地域「琉球弧」を指すと思って下さい。しかし、これは地理的概念ではありません。これらの地域を文化面などでとらえかえしていこうという考え方です) の会員でした。誤解されると困るので言っておきますが、私は無党派です。
 
 
①君が代の歴史について。最初にフェントンというイギリス人に、陸軍の大山巌が国歌が必要なのではといわれ、彼につくってもらった曲。しかし、これは日本人には、なじみにくく、次第に歌われなくなりました。今度は海軍から宮内省に国歌をつくってはどうかということで、宮内省の式部寮雅楽課が君が代をつくります。その時ドイツのエッケルトという音楽家も協力するのです。しかし、結局この曲もあまりうまくいきませんでした。ついに文部省は国歌の選定を音楽取調掛に命じることになります。1年後取調掛は、とても国歌はつくれない、難しいということで、この命令を返上。そこで最終的にはエッケルトも参加した宮内省の曲が君が代の曲になっていくわけです。しかし、まだ国歌として認められたわけではなく、これが国歌として教育の場で使われるようになるのは1889年の大日本帝國憲法の成立、翌年の教育勅語、さらにその翌年の小学校祝日大祭日儀式規程の成立まで、待たねばなりませんでした。
②君が代の歌詞について。もとは「古今和歌集」のよみ人知らずの歌詞から来ているとされています。この君が代ですが元は挽歌(柩をかつぐ時の歌)だったという説もあります。この挽歌を賀歌にかえ和歌集にのせたのが紀貫之といわれます。いずれにしても君が代は和歌集の筆頭にきている「賀歌」であり、その歌が読み人知らず、しかも読んだ相手も不明とは、不自然との説もあります。さて歌詞の解釈ですが、たしかに「君」には「あなた」という意味があるのも事実です。しかし、戦前はこれを「天皇(君)が治める世が、永遠に続くように」という解釈のもと学校教育で教えられました。戦後「君」は、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する国民の総意に基づく「天皇」を指すと解釈されるようになりました。

現在の君が代をめぐる動向
君が代は国歌法の成立により、国際的にはもちろんのこと国内に於いても一層国民の間に定着したといえます。また国歌君が代に対して理屈ぬきで敬意をはらうべきであるという意見も多数あり、さらにわれわれは君が代の負の歴史を忘れぬためにも、君が代とともにそれを背負って生きていくべきだという意見の方もおられます。私はいうまでもなくこのような位置にある君が代そのものを問題にしようとしているのではありません。何度も書いてあるように、強制を主にここで取り上げているのです。

 公務員と「君が代」
学習指導要領と「君が代」
卒業式の主人公・起立とは歌うこと
国際理解・職務命令
目の前の子どもたち
抵抗権
関連書籍

掲示板

リンク集

もうひとつの関心事、秩父事件。埼玉、音楽寺に於いて
1

君が代
音楽,楽器 ,短レス|20080620
ブックマーク: Buzzurl / Hatena /Yahoo!  

タグ :
君が代
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「君が代」を読む

# 編集元:既婚男性板より

180 名無しさん@お腹いっぱい。 :2008/06/05(木) 06:46:24
<Kiss Me Girl>

き   み  が あ よ    お  わ
Kiss me, girl, your old one.

ち  よ     に い  い や    ち よ    に
Till you're near, it is years till you're near.

さ        ざ   で   い  し  の
Sounds of the dead will she know ?

し   わ    お  と   な   り て
She wants all told, now retained,

こ       け   の       む  う   す  う     ま   あ  で
for, cold caves know the moon's seeing the mad and dead.


訳---
私にキスしておくれ、少女よ、このおばあちゃんに。
おまえがそばに来てくれるまで、何年もかかったよ、そばに来てくれるまで。
死者たちの声を知ってくれるのかい。
すべてが語られ、今、心にとどめておくことを望んでくれるんだね。
だって、そうだよね。冷たい洞窟は知っているんだからね。
お月さまは、気がふれて死んでいった者たちのことをずっと見てるってことを。







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